今回も当社の100年史からの話です。同業者或は関係者以外の方々には少し専門的なお話かも知れません。我慢してお読み下さい。
明治、大正そして昭和の初めの頃は今では当り前の施工図※や竣工図※を1枚も画かなくて良かったようです。又、発注者からの要求もなかったといいます。お役所の仕事でも、見積りの図面か、契約の図面(いわゆる設計図)だけで万事OKとされ、実際に施工に当っても何の不都合もなかったのです。
施工に当ってはチョークを1本持参して、先方と当方と2~3人が集って、現場に印をつけ、その通りに工事をやれば良かったのです。昔の工事はそれほど簡単だったことにもよります。ただし、一旦施工した後から都合でちょっと変更してくれ、と言われることもままあったようですが、少々のことはサービスで施工し直したのです。当社の京都府庁(大正年間)、沖縄放送局(昭和19年)などの大きな工事でも、施工図や竣工図は一度も画いていませんでした。戦前唯一画いたのは、日赤京都支部第一病院(昭和7~9年頃)の工事でした。
昔は地元の同業者では、おやじさんの他に、監督や事務員合わせて2人居るという店はそうそう無く、たいていは電話番兼留守番兼事務員が1人という店が多かったのです。その代り、図面や事務は不得手だが、工事なら任せてくれ、という電工が1人か2人居て、現場を全て取り仕切っていたのです。
100年史の著者、先代社長の山科吉三によると、当店でも図面を引いていたのは先代と先々代の2人、事務員が1人か2人、それで間に合っていたといいます。又、先代はこのように記しています。“カラス口で引いた古い図面を時々引っ張り出して見ていると、今日の図面とはちょっと引き方が違うかも知れない。今の若い人が褒めてくれるかどうか、ちょっと気がかりである・・・・、”と。
今は何でもパソコンで作成します。図面一つとっても、時代の大きな変化を感じさせられます。
宇宙から夜の地球を見ると、漆黒の暗闇の中にあざやかに光輝く日本列島が浮んでいるといいます。この光景を実際に見たのは、残念ながら数十名の宇宙飛行士達だけですが、私達も飛行機の夜の便に乗った時これに近い体験が出来ますね。
しかし、こんなにエネルギーを使い、街中が夜でも明るくなったのは実は比較的最近のことで、電気のあまり普及していなかった明治時代はもちろん、大正、昭和初期の時代でも普通の街では夜は漆黒の闇に包まれていたようです(これは前回の35話の内容からもお分かり頂けると思います。)
そんな中で、京都はやはり少し違っていたのです。今回は電気を守る会発行の「電灯100年」誌からの引用です。文章は一部主旨を変えない範囲で省略、要約させて頂いております。
便利な電車の開通と共に、京都の祇園町から四条通りを西へ瓦斯灯の光が流れて、街の繁華を一層盛んにしたのは、明治の御代であった。これが、京都市の街路照明の始まりであった。
・・・・・・青白い瓦斯灯の光がやがて明々とした電灯照明に換えられる時が来た。大正4年、大正天皇の御大典が京都で挙げられ、市民の歓喜は10万余個の電灯の光となって、奉迎門、行幸道路はもちろん、あらゆる通りに臨時外灯が連なり、橋梁、大建築物はイルミネーションの美を競いその栄光は全市を包んだ。
この時、電灯による街路照明柱の建設の議が四条通奈良物町(今の四条寺町辺り)に起こった。当時モダンな5灯付の街灯柱20基が瓦斯灯と置き換えられ、断然明るく光を放ち、期せずして繁華の中心となって市内各町の羨望の的となった。
次いで大正5年、四条通南座前にこれとほぼ同型の16基が建てられ、大正9年までにグローブ※に工夫を加えた5灯付街灯131基が四条通りの鴨川から烏丸通の近くまで約十余町にわたって建設されるに至り、京都の外灯として、しばらく他都市の注目するところになった。
いかがでしょう、モダンで明るい外灯を見上げながら街を歩く人々のザワメキが聞こえてくるようです。次回もこの続きをお届けします。
今回も前回に引続き、電気を守る会発行の「電灯100年」誌からの引用です。情景を思い浮べながらお読み下さい。
大正時代には、ちょうど全国各都市においても街路照明の必要が話題になっており、街路建設の気運が大変高まっていた。京都市においては、次から次に町々に街灯が建てられ、大正13年には、四条通八坂神社石段下から四条小橋に至るまで、祇園気分を多分に表わした2灯付外灯を青銅製のものを含み63基建てつらねて、昔日の瓦斯灯の影はみるよしもないようになっていた。
行幸道路の烏丸通には、当時、莫大な資金を投じて大型の灯柱が20間の間隔を置いて建てられ、大主要道路にそくした偉大な形状は人々の眼を奪った。プラタナスの街路灯の間、一基千燭光に近い光が夜の行幸通を美化し、都のメインストリートとしてその価値を十二分に発揮させていた。
新京極は、京都における大阪の道頓堀に比すべき最も繁華な町であり、これに接し、南北に走る寺町通は、大正13年に至り、京極の延長として最も奇抜にして高尚な半アーチ型の街灯柱を建設した。点灯後の夜の街は白光のトンネルを作り出して、人々は完全に小売店街路照明の極致に魅了された。これは鈴蘭型街灯と称され、たちまち全国に宣伝され、一躍街灯界のスターとなった。京都市においてはこの型は100基近くあった。
京都電灯が開発した鈴蘭灯(四条寺町下ル)
いかがでしょう、京都はずい分と元気だったのですね。各街路の賑かな情景が目に浮かぶようです。
今回も前々回、前回に引続き、電気を守る会発行の「電灯100年」誌からの引用です。年配の方なら「河ブラ」という言葉を懐かしく思い出されることと思います。
都市計画によって河原町通が南北に縦走するにおよんで、丸太町から七条通りまで20数町に2灯付および5灯付の街灯が380基建ち並び、新興の街路を力強く輝かし、バーやカフェーが文字通り軒を連ね、京の河ブラの名に繁栄の華が咲いたような感じになった。昭和2年、柳桜の植樹地帯木屋町通りに台灯付のシックな街灯が二条五条間15カ町にわたって120基建設され、木屋町のなごやかな情緒を漂わせていた。新京極の繁華も各町の絶えない街路照明の建設、店頭照明の改善に押されて、ついに昭和3年、町議により3万円を投じて華麗な独特の全町の軒先を連ねた街灯181基を建設した。
昭和3年の秋、御大礼の記念として街灯を建設するものが相次いで全市におこり、主要商店街の大部分は街路照明の施設を作った。京都市におけるこれらの装飾街灯柱は、その建設費は多く沿道の家主が負担し、その経常費は借家人が負担することになっていた。すなわち、各町が競って他所より以上の立派な街灯を建てようとした結果、多種多様の灯器を生み出して一見はなはだ統一を欠く観がないでもなかったが、しかしその街々の特徴を生かし、かつ全市の調和、都としての気分を破らないように常に注意が払われていた。
新京極の軒装照明
いかがでしたか。照明もずい分と進化しましたので、現代の明るさとは恐らく比べものにならない照度であったことでしょう。でも人々の心意気や華やいだ気持ちが、今よりもうんと伝わってくるのではないでしょうか。
昭和初期に電気冷蔵庫が使用されていた様子は、第25話でお伝えしましたが、この頃、電気は様々な分野で活躍するようになってきます。
その内の2つの例を、電気を守る会発行の「電灯100年」誌からの引用で紹介します。
「映画館の電気装飾」
当時、映画館の看板は、絵看板を主としたものから、写真を併用したものに変わってきていた。
例えば京都新京極の中央にあるキネマ倶楽部では、入口上部の切子硝子をはめた個所に80W内面艶消電球25個を取付け切子硝子を通して表を照明すると同時に、入口に立てた写真の立看板を照らしていた。
絵看板はブラケットで150W透明電球30個によって照らしてあり、この他に上下とも臨時に提灯などが吊れる設備があり、時には色電球を使用することもあった。
年配の方には懐かしい光景ではないでしょうか。もう1例は
「酒造用の電力利用」
昭和初期の酒造にも、電力は幅広く応用されていた。利用方法は最も普通に使われる精米用、揚水用。変わったところでは、人工用水の電気分解、華氏40度を保つための用水冷却用、一度醸造した酒の貯蔵ならびに蔵出し、瓶詰めなどの場合に応用する電熱による火入れ、菰包みの焼印、酒造期の延長をはかるための冷房用電力装置などに使われた。これらを利用して経済的醸造法を考えることは、大いに電力需要として注目すべき新領域であった。
いかかでしょう。従来は杜氏や蔵人の経験や勘による手作りの産業であった酒造業が、少しずつ近代化されて、今日では四季を問わず安定した生産が行われるようになったのには、このような電力の利用が大いにあずかっているのですね。
今回は第39話(昭和初期の電気・電力利用)のつづきと申しますか、ちょっとそれに先立つ年代のお話をお伝えします。電気を守る会発行の「電灯100年」誌からの引用です。
「電灯50年祭と京都の催し」
昭和4年、電灯50年祭を迎えて、多彩な祝賀行事が行われたが、京都における催しは次のようなものであった。
まず、祝賀会が都ホテルで盛大に行われた。それから市電気局、京都電灯(株)、島津製作所の電気自動車行列、乾電池電灯を用いた提灯による電気提灯行列である。
また、京都商工会議所主催、京都小売店連盟である各小売店街約70カ町において行われた店舗装備競議会では、装飾的高濁外灯の連灯と店舗照明の改善とにより全市を光の海とした。
他に、京都大丸において展覧会、岡崎公園において夜間庭球大会、両夜京都公会堂において宝塚少女歌劇が、それぞれに催された。
ある時、和歌山県出身の子供だが、今夜一晩だけでもよいから預ってもらえないか」と職業紹介所から当店へ依頼がありました。
事情をうかがうと、今日、和歌山から就職目的で親戚を頼って出て来た子供があったのですが、親戚の住所氏名を書いたメモを紛失して、駅でウロウロしていたのを警察に保護されたというのです。
今ならすぐ家へケイタイで問い合わすのでしょうが、当時家に電話もないので連絡の取りようがなかったのです。とりあえず七条職業紹介所に預けられたのですが、紹介所では泊めるわけにもいかず、「困っているので今夜一晩だけでも泊めてやってもらいたい、何ならそちらで使ってもらえませんか」、とのこと。
「それなら店でとりあえず泊めましょう」、紹介所の人も「ああ、これでひとまず安心した」となったのです。
その子がなかなか良い子であって、結局、当店で雇うことになり、職業紹介所から親の家へ手紙で連絡すると、京都の親戚の人が10日程して店へやって来られ、どうか今後共よろしくお願いします、とのこと。その後その人は兵隊検査まで当店にいた、という今日考えると嘘のような話しがあったのです。
その当時の休日等については又次回にお話しさせて頂きます。
第6話で今から考えると嘘のような人の採用のお話をしました。今回も当社の100年史に記録されている、今の若い方々には理解しがたいと思われる休日のお話をお届けします。
昭和初期の頃、当店の休みは毎月1日と15日の2日、その他にお正月とお盆、そしてお祭りの時だけで、皆本当によく働いたようです。今日ですと、年間約120日、3日に1回が何らかの形で休みですから大変な違いです。
にもかかわらず、仕事の都合で月2回の休日を、1回にせざるを得ないこともよく有ったようです。当時の風潮として、お客様から仕事の都合上、休みの日に来て欲しいと言われると、「明日は休日ですので・・・」とは言えなかったようです。又、人によっては、懐具合で喜んで出勤した人もあったようです。
松下幸之助さんのことを記述した本を読みますと、当時やはりほとんど休んでおられなかったことが判りますので、当時はそれで普通だったのかも知れませんが、遊びざかりの若い住込みの人には気の毒なことであったと、社史には記してあります。
でも、ちょっとホッとする話もあります。夏の2ヶ月半程の間は、昼寝の時間があったようで、正午から2時まで皆ぐっすりと横になり、元気を回復して午後の仕事に当ったようです。今日、私達の建設業の現状として、価格競争から工期短縮を強いられ、暑い現場で休みなく働き、その結果熱中症で倒れる、という事故が多く発生しています。安全対策上、少し考えさせられる話です。