第5集 明治終わりから大正、昭和初期の頃

第1話 画期的な電熱実用化

 今回より数回に分けて、明治の終り頃から大正にかけての電気の普及ぶりをたどってみます。資料は「電灯100年」(電気を守る会編)より頂きました。
 洋銀線などを用いた低温用の暖房器は明治43年頃から実用化され始めていましたが、大正期に入ると電力各社は余剰電力の消化に苦心し、その対応策として、大正3年に京都電灯が電気ストーブを多数市場に出すに至りました。
 また最も早く大規模に電熱が実用化されたのは、大正4年の御大典当時祇園の八坂倶楽部における宴会に際し、待合室や大広間に暖房用として京都電灯が製造し、設置した「Y1式」と呼ばれる3kW及び5kWの電気ストーブ36台(容量150kW)でした。これが日本最初のもので、この画期的な電熱実用化の大成功は参会者から驚きの目をもってみられたといわれます。
 なお、当時の電熱器具としてはこの他に電気アイロン、電気蒲団、珈琲沸し、電気鍋などが有りましたが、種類も少なく、いずれも外国製であったので値段も高く、贅沢品と思われていたようです。

第2話 「もったいない」

 大正5年になると京都電灯が四条御幸町に電気知識の普及と需要開拓の為に、日本で最初の「電気の店」を開設しました。これらをきっかけに家庭の電化が進むのですが、このお話は次回にゆずり、今回はその少し後の話になりますが、タイムリーな話題を先にお届けします。
 今年の2月に、地球温暖化防止を目指す「京都議定書」の発効を記念して、毎日新聞社の招きにより、昨年のノーベル平和賞受章者でケニアの副環境相であるワンガリ・マータイさんが来日されました。そのマータイさんが「日本語の『もったいない』という言葉に感激した。世界に広めたい。」と語ったことは皆さんの記憶に新しいところだと思います。
 さて今回はその『もったいない』のお話です。
 「電灯100年」誌には多くの市民からの寄稿が掲載されていますが、その中に、相楽郡にお住いの薮仲さんという年配の方が、こう書いておられます。

省エネルギーのさきがけ

  現在、京都府下で唯一の「村」相楽郡南山城村高山に電灯が点いたのは大正14年10月16日のことだ。当時、高山村周辺の笠置村、月ヶ瀬村は東邦電灯㈱によって電力の供給を受けていた。また高山村と合併する前の大河原村には京都電灯㈱によって送電されていた。高山村の住民は、月ヶ瀬、大河原の両村の電灯を比べて大河原村の電灯が明るくて、しかも電灯料金がひと月あたり12銭も安かったことに目をつけ、京都電灯から送電を受けるべく要望を出し、村民あげての運動となった。
 電灯が点いた当時、定額料金であるにもかかわらず村民達は『もったいない』とこまめに消灯した。今の省エネルギー運動のさきがけだ。電灯のおかげで、地場産業の茶の生産があがり、しかもその製品の質がよくなったと大変よろこばれた。
 いかがでしょうか。考えさせられるものがありますね。

第3話 京都は何でも早おすえ!
―人気を呼んだ「電気の店」と「家庭全電化」 

 近年、関西電力が住宅の「オール電化」を推奨しているのは皆さんよくご存知の事と思います。「オール電化」による、安全性、利便性、経済性を広くお勧めしているのですが、ライバルであるガス会社も負けじと自社製品のPRに努めています。でも少しずつ「オール電化」の良さが理解されつつあるようです。
 実はこの動き、「電灯100年」誌によりますと、京都では今からおよそ90年も前に始っていたのです。
 京都電灯では大正5年に、四条通御旅町に電気知識の普及と需要の開拓の為、日本で最初の「電気の店」を開設しています。この店内では、最新の電灯や家庭用電気器具類が多彩に展示され、器具の取り扱い方や料金などの説明のパンフレットも配布されたようです。この「電気の店」は人々の人気を呼び、連日満員の盛況振りであったと記されています。この後、同じような「電気陳列所」が各地に出現するようになります。
 京都電灯では、この他にも家庭を訪問して実施指導を行ったり、電熱を利用した料理講習会や百貨店での「電気展覧会」などを通じて、電気知識の向上と普及に努めていきます。 大衆の間に広く炊事用として家庭電化が進んだのは、大正9年、京都市東山区の井上亀之助氏邸の「家庭全電化」に始ります。これに続いて石川芳次郎氏邸、11年には京大教授、青柳栄司氏邸が電化され、京都が家庭電化の先駆けをなしたと言われています。 いやはや京都の人は、新しいもんが好きどすな~。

第4話 昭和2年の電気冷蔵庫の感想

 暑い夏がやって来ました。この頁へのご訪問ありがとうございます。 冷蔵庫でも開けて、冷酒か冷たいビールなど引っぱり出して頂いて、この頁をお読み頂ければ幸いです。今回も「電灯100年」誌より話題を拝借致しました。 京都の方の新しいもの好きは有名ですが、冷蔵庫もかなり古くから普及していたようです。「電灯100年」誌に昭和2年6月より、フリジデーヤ(12立方尺)を使用されていた烏丸のA氏の奥様の感想文が記録されています。 「家族数は15、6人ですが大きさは充分間に合います。お客様にも充分に冷たいものを差し上げることが出来ますから大変便利でございます。 牛乳は大変永く保ちます。十日以上大丈夫でしょう。普通の食物も一週間あるいはそれ以上大丈夫でしょうが、あまり永く置くと気持ちが悪いのでそう永くは入れて置かぬようにしております。 出来る氷もいろいろの用に充分間に合って大変便利でございます。水の加減でしょうか、出来た氷がよく澄んでいる時と、時によっては中に泡を含んでいることがあります。 強いて欠点といえば、出来た氷が少し臭いを帯びているので冷やしものには差支えがありませんが、口に入れるのにはどうかと思われることがあります。それから、水気のある食物を入れると乾き過ぎて具合が悪いようでございます。 故障は一回もありません。電気代も大変僅かで済むようで喜んでおります。電気代は一ヵ月に3円もいりません。もっとも冷蔵庫だけの電力を測るようになっておりませんからくわしいことはわかりませんが、冷蔵庫を使用しない月の支払いと比較しますと3円はかかっていないように思います。」 いかがでしょうか。昭和2年というと今から80年近くも昔のことですが、なかなかモダンな生活ぶりがうかがえますね。

ビール

今日のお酒の味はいかがでしたでしょうか。えっ、よく冷えて美味しかった?良かったですね。それでは暑さに負けず快適な夏をお過ごし下さい。

第5話 昭和初期の労務事情 その1 職業紹介所

 当社の100年史を繙いてみますと・・・

 昭和の初期、当店には成人が10人余り、住み込み(主に未成年)が4人程 戦前最も多かったのが昭和10年~13年頃で、大人15人余り、住み込み5人程で、計20人程が働いていました。これらの人は皆、直営で、特別なケースを除けば、下請や外注にはほとんど出さずに仕事をこなしていたのです。直営は、利益率から言えば不利でしたが、反面お客様からはそれを知って喜んでいただいていたようです。

 昭和12年~13年頃以降はそろそろ応召が始まり、新卒の採用は難しくなり、更に16年頃になると、仕事そのものが急激に減少して来ます。ただし、労務上は店員の中にも応召者がかなり出て、それなりにバランスがとれていたようですが、18年頃になると経営者の他は50歳以上(当時としてはかなりの高齢者)の電工2~3人と未成年の住み込み2人程の5~6人になってしまい、仕事らしい仕事も出来ない状態になってしまいました。

 昭和5~6年頃は住み込みの内約7割は縁故採用でしたが、残りの約3割がその当時の職業紹介所(後の公共職業安定所、今のハローワーク)からでした。それが不思議なことに、当時当店から一度も求人票を出さないのに、職業紹介所から採用の依頼があったと言います。当時の不景気による人余り(今で言う有効求人倍率が低く)が原因ですが、中には長野県からの依頼もあり、採用したことがあったと言います。

 ある時、「和歌山県出身の子供だが、今夜一晩だけでも良いから預って貰えないか」と職業紹介所からの依頼がありました。「え?」と思われたことと思います。このことは次回お話しを致しましょう。

第6話 昭和初期の労務事情 その2 職業紹介所

 ある時、和歌山県出身の子供だが、今夜一晩だけでもよいから預ってもらえないか」と職業紹介所から当店へ依頼がありました。 事情をうかがうと、今日、和歌山から就職目的で親戚を頼って出て来た子供があったのですが、親戚の住所氏名を書いたメモを紛失して、駅でウロウロしていたのを警察に保護されたというのです。

 今ならすぐ家へケイタイで問い合わすのでしょうが、当時家に電話もないので連絡の取りようがなかったのです。とりあえず七条職業紹介所に預けられたのですが、紹介所では泊めるわけにもいかず、「困っているので今夜一晩だけでも泊めてやってもらいたい、何ならそちらで使ってもらえませんか」、とのこと。 「それなら店でとりあえず泊めましょう」、紹介所の人も「ああ、これでひとまず安心した」となったのです。

 その子がなかなか良い子であって、結局、当店で雇うことになり、職業紹介所から親の家へ手紙で連絡すると、京都の親戚の人が10日程して店へやって来られ、どうか今後共よろしくお願いします、とのこと。その後その人は兵隊検査まで当店にいた、という今日考えると嘘のような話しがあったのです。 その当時の休日等については又次回にお話しさせて頂きます。

第7話 昭和初期の労務事情 その3 みんなよく働いた

 第6話で今から考えると嘘のような人の採用のお話をしました。今回も当社の100年史に記録されている、今の若い方々には理解しがたいと思われる休日のお話をお届けします。
 昭和初期の頃、当店の休みは毎月1日と15日の2日、その他にお正月とお盆、そしてお祭りの時だけで、皆本当によく働いたようです。今日ですと、年間約120日、3日に1回が何らかの形で休みですから大変な違いです。

 にもかかわらず、仕事の都合で月2回の休日を、1回にせざるを得ないこともよく有ったようです。当時の風潮として、お客様から仕事の都合上、休みの日に来て欲しいと言われると、「明日は休日ですので・・・」とは言えなかったようです。又、人によっては、懐具合で喜んで出勤した人もあったようです。

 松下幸之助さんのことを記述した本を読みますと、当時やはりほとんど休んでおられなかったことが判りますので、当時はそれで普通だったのかも知れませんが、遊びざかりの若い住込みの人には気の毒なことであったと、社史には記してあります。

 でも、ちょっとホッとする話もあります。夏の2ヶ月半程の間は、昼寝の時間があったようで、正午から2時まで皆ぐっすりと横になり、元気を回復して午後の仕事に当ったようです。今日、私達の建設業の現状として、価格競争から工期短縮を強いられ、暑い現場で休みなく働き、その結果熱中症で倒れる、という事故が多く発生しています。安全対策上、少し考えさせられる話です。