今回は、ちょっと視点を変えてお話しします。
当社の資機材倉庫には、最新の材料、工具に混じって、うんと昔の工具類がいくつか置かれています。スペースも利益を生む要素、資産は持たずに借りるという今の経営の考え方からは、すぐにでも処分すべきものかもしれません。しかし、随分と使い込まれ、よく手入れのされたそれらの工具類は、今の若い人達に多くのことを教えてくれているようで、なかなか捨てられずにいるのです。
当社にも名工と呼ぶにふさわしい電工が何人も居りましたが、それらの人達の電工ナイフは定期的に砥石で砥がれ、見事な光沢を放っていました。普通2.5cm位ある刃の幅が1.5cm位になるまで使われていたのをよく覚えています。その鋭さは、一見手を切ってしまわないかと心配する程ですが、実は手入れの悪いナイフ程、よく怪我をするのです。名工達に共通していたことのひとつは、道具を大切に扱うことでした。
何でも能率第一の世の中になって、例えばナイフでもオルファといったものが使われ、消耗品の感覚になって来ました。手入れする時間の方が高くつく、という発想でしょうか。或いは、建築で使われるコーキング材の発達は雨じまい、水じまいを工夫することを忘れさせ、ひいてはその職人の腕前を退化させてしまっているかのようです。人間は便利さを手に入れる一方で、大切なことをどんどん忘れ、無くして行っているように思えてなりません。
イチロー選手は大リーグにおいてもトップの選手になりましたが、実はロッカールームに一番最後まで残って、シューズの泥を落とし、クリームで磨き、手入れをしているのがイチロー選手だ、という記事を読んだことがあります。
イチローならいくらでも新しいシューズを手に入れられそうなのに・・・。
私達は昔の名工、職人達に学び、道具を大切に扱う心が、お客様へ良い工事を提供することにつながると信じ、今後も努力して参りたいと思います。
今回も当社100年史からの話題です。のんびりした時代の話ですが、仕事の骨休みにお読み下さい。
大正12年の話です。当時、当店では配電盤の組み立てはほとんど外注していたのですが、珍しく店で組み立てて納めたことがありました。
丁度、襖1枚分位の大きさの低圧盤で夜業して突貫で納めたようです。
注文主はなんと四国の山村の方で、どんなつてがあって当店へ注文されたのかは不明です(今なら、インターネットでの工事依頼が遠方からあるのですが・・・)。その方は初めてのご依頼で、手付金を頂き、無事先方へ納品したのです。
さて、しばらくしても残金が頂けなかったので、創業者吉之助はしびれを切らして、とうとう先方まで集金に行くことにしたのです。
大阪商船(今の関西汽船)の夜便で行き、とりあえず道後へ行き、道順を尋ねかたがた温泉へでも・・・とウロウロしていると、「やあ、これは珍しい所でお目にかかります、どちらへお越しで・・・」と声をかけた人が居る。その人は配電盤を注文した人だったのです。
「私はあなたに会って残金をもらおうと、わざわざやって来たのです。丁度良かった、これからあなたの所へ行きましょう。」
「いや、ちょっと待って下さい、それは困ります。当方のような山の中へ見知らぬ人が来たのでは、借金していることが一遍に村中にばれてしまう。何とかその義ばかりは、しばらく待って下さい。必ず金策してお渡ししますから、こちらへ来るのだけは勘弁して下さい。その代り、2~3日この温泉に泊まって待って下さい。宿の払いは私がしますので・・・」と平身低頭で頼まれます。
創業者は、性格も穏かで、温泉も嫌いな方ではなかったので、先方の立場も考えてそれならと中止し、「きっと、たのみますよ」と言って、宿へ送りこまれたのでした。待つこと2~3日、残金を無事受取った吉之助は意気揚々と帰京したのでした。
「悪いことは出来ませんなあ。あんな所でバッタリ出会うとは。先方も、温泉へ遊びに来たと勘違いして、向こうの方から声をかけたりして。先方の村の中でなら、ハハーンと感づいてそっと逃げるところやのになあ・・・」と事の次第を家族にも親しい人にも何度も話していたようです。
資料を色々と整理していましたら、興味深い記事を発見しました。
ちょっと時代が戻りますが、そのまま全文を掲載しますのでお読み下さい。出典は、(財)納税協会連合会が発行の「納税月報」平成9年6月号です。「関西を観る」というシリーズ物で、河内厚郎氏の筆による「小泉八雲が観た“京都”」です。
今回は、久しぶりに当社100年史からの話題です。
話題の中心は電気工事そのものではないのですが、当時のことが良く分ります。当社2代目社長山科吉三の少年時代の述懐です。骨休みにお読みください。
釜山電灯会社
帳簿を調べていくと、明治36年頃から、釜山電力会社の口座がいくつか見つかった。
帳簿の内容から、資材を送っているだけで、工事を直接やったわけではない。父の友人で、横江川という方があり、あるいはその人が釜山電灯会社へ勤めておられたか、出入りしておられたと思う。
その額を一、二記載すると、明治37年12月5日71円85銭、38年2月27日67円50銭、38年3月21日38円40銭、38年12月18日213円30銭、39年5月111円20銭などである。
明治37年12月とは、未だ日露戦争の最中であるが、もう釜山電灯会社が出来ていたと見える。
その後43年になると、横江川さんの息子の明さんに、忘れられない思い出が2つ3つある。
明さんは私より4歳か5歳年長であるが、その方が三高へ入学され、私の家へ挨拶に来られたことがある。丁度その日の夕方、私の一中入学の発表があり、無事入学できたので、家へ入るなり、母親に合格のことを報告すると、母は丁度来客に夕食のもてなしをすべく、かまどに火を入れている最中で、母はかまどから目を離さず「それは良かったなあ。入ってから進級にすべっても目立たんけれども、入学のときすべると目立つからなあ」といったきりで、かまどのオキを落とすかどうかのタイミングをうかがっている。
その時私は一寸がっかりしたが、昔の親は根性がすわっていて、今考えると、この方が頼もしい。その後、私は誰からも入学祝というのをもらったこともないし、当時はそれが当たり前であった。今日の親たちは一寸異常である。
一中と三高は隣同士で、その後、明さんは苦学しておられるらしく、学習塾の公告ビラを一中で配りに来ておられるのに2、3回出会った。その前後に父親が死去されたので、やがて三高を中退して釜山へ帰られたと聞いた。当時は一中では4年になると、朝鮮へ修学旅行に行った。7泊8日で鴨緑江を渡って安東駅まで行くのである。
前回に引続き、当社2代目社長山科吉三の少年時代の述懐です。
今とはずい分違う時代の様子が分かります。
当時は一中(注:京都第一中等学校)では4年になると、朝鮮へ修学旅行に行った。7泊8日で、鴨緑江を渡って安東駅まで行くのである。安東駅ではてん足をした老婦人が100人程二列になって、お互い肩を持ちあいヨチヨチと歩いて列車に乗るのを見てびっくりした。昔は中国では上流社会の女子は皆てん足したらしい。(中略)父(注:創業者 山科吉之助)の命令で釜山へ着いた夜、旅館で夕食をすませ、先生に許可をもらって、一人で電車に乗って、町はずれにある横江川氏の家をたずねた。電車といってもチンチン電車ぐらいで、レールの下は石だたみもなく、土を固めた程度である。100mか150m毎に薄暗い外灯がポツンポツンと点っている寂しい所で、乗客は私一人か、他にあったか、今考えるとあんな寂しい所を一人でよく行ったものである。治安が良かったのかもしれない。
幸い明さんとほっそりとした上品なお母さんの二人が在宅で、しばらく四方山のお話をした。食事をすすめられたが今済ませてきたと辞退するとそれでは風呂でもとすすめられ、これは有難いと前夜からの関釜連絡船の垢を流させてもらって、又、一人で電車に乗って旅館まで帰った。
翌朝汽車の出る直前に、明さんが大きな夏みかんを山程持って見送りに来られ、友人達と喜んで頂いた事を覚えている。
明さんは父の後をついで、鉄工所を経営しておられたがうまくゆかなかったらしい。その翌年、又、三高のあたりで学生服を着て、前と同じアルバイトをしておられるのに2,3度出会ったきりで、その後は今日まで音沙汰がない。明さんはヒゲの濃い好青年で、今どうしておられるか。
付記:帳簿2号、横江川名義、明治43年4月、66円、送料4円57銭同避雷針4本(単価9円50銭)38円
今回は当社の100年誌「道」からの引用です。
先代社長山科吉三が島津さんの電気自動車と島津さんからのご用命の工事について述懐しています。
昭和の初めの頃の話ですが、当時のモダンな様子が窺われますのでお読み下さい。
履歴書を見ると、父(注:創業者 山科吉之助)は島津製作所に約1年程勤めていた。その関係から、私(山科吉三)も2代目の島津源蔵さんに時々お目にかかっている。
父は初代島津さんの時代に入社したのである。
昔、島津さんの別荘が北白川にあり、本宅は東洞院御池の角で、丁度私の家は、横を通って本宅へ向かわれる道筋である。何か用件があると、時々私の家へ立ち寄られた。
島津さんは、すらっとした背の高い立派な人で、父より1、2歳年上と思われた。いつも電気自動車乗っていられたが、その電気自動車は実用本位で出来ている。島津さんは日本電池の社長を兼ねておられるので、電池を使われるのは分かるが、ボディを誰が設計したのか、お上手にもスマートとは言えない。運転手の他に客2人がどうやらスシ詰に乗れる位のスペースで、膝をのばしてゆっくり乗ることは不可能であり、乗れば不動の姿勢である。