第4集 初期の頃の仕入先、外注先

第1話 初期の頃の仕入先、外注先 その1

 私(当昔ばなし筆者、当社現社長)が当社へ入社したのは、丁度創業満80年の年(昭和48年)でした。私は先代社長(当時は専務)であるおじのお伴をして、何日もかけて80周年の挨拶まわりに出かけました。
 その時、おじはお得意様は後まわしにして仕入先から廻るので、アレ?と思ったことを強く覚えています。おじはその時、お得意様は勿論大切であるが、私達の仕事は材料無しでは出来ない、その材料を提供して下さる仕入先はもっと大事にしなければいけない、ということを教えたかったのだと思います。
 そんな訳で、今回から数度に分けて、当社の古い仕入先とのつながりについてお話しをします。
 明治、大正時代の照明器具の仕入の大部分は、大阪島田硝子㈱でした。島田硝子は昭和6年頃、京都に出張所を設けられ、その後出張所が代理店に変更され平安ガラス㈱となります。その後も数度の名称変更を経て、現在はジーエス・ヘイアン・ライティング㈱として活躍しておられます。
 当社とは最初の島田硝子から数えて現在まで約110年にわたる取引が続いていることになりますが、当社にとっては最も古い仕入先で、こんなに永く続いているのは全国的にもめずらしいことと思います。おじが100年誌に、“母(創立者の妻のぶ)がまだ若かった頃、島田硝子さんには色々お世話になった、と何度も話していた”との思い出を記しています。
 当社に残る帳簿には、明治28年9月より32年4月まで、仕入総額95円 明治33年6月、25円43銭、33年11月、16円96銭、33年12月、23円52銭2厘、といった記録があります。
 イヤー、これだけ永く取引が続けられるということは、本当にありがたいことです。

第2話 初期の頃の仕入先、外注先 その2

 お客様は勿論私達にとって神様の存在です。でも当社では、その神様より大切に、と考え、お付き合いしているのが仕入先であるということを、第1話でお話ししました。前回は島田硝子さんについてお話ししましたが今回は材料店の美笠電気商会さんです。

美笠電気商会さんは、総合電材店として一番古い取引をさせて頂いた会社です。大正6、7年頃といいますと今から87~8年前になりますが、当社は児玉電気商会(電材店)と取引を始めたようです。児玉氏は後に、伊藤、湯浅氏と合併して、美笠電気商会となられます。大阪本社以外に、東京、京都、大連に支店を持ち、関西では断トツの大きな電材店でした。

当社は、照明器具及びパイプ以外は全てこの店で仕入れていました。そのパイプですが、一分厚パイプはアメリカ製を使用しました。当時勿論日本製のパイプもありましたが、アメリカ製の方が柔かく、曲げなどの加工がたやすかったことによります。しかし、価格は少し高かったと記録されています。

この美笠電気商会は昭和50年頃に京栄商会により合併されましたが、それまで60年近くにわたって取引をさせて頂きました。京栄商会には、ずっとお世話になっていますので、90年近いお付き合い、ということになります。いやはや、本当にありがたいことです。

第3話 初期の頃の仕入先、外注先 その3

 前々回は島田硝子さん、前回は美笠電気商会さんを紹介しましたが、今回は才賀藤兵衛(才賀電気商会)さんのお話しをさせて頂きます。

当社の創業者である山科吉之助が横浜で勤めていた会社(横浜共同電機製作所)の兄弟子(今なら先輩社員と言いますが、当時はこの呼び方がピッタリ)に才賀藤兵衛さんという方がおられました。この才賀さんが後日電材店を始められて大いに成功されました。
その才賀さんが、本店の他に、京都にも支店を設けられ、支店長に才賀藤吉さんが就任されました。先代社長のおじによると藤兵衛さんのご兄弟ではないかといいます。その京都支店と当社は取引を始め、随所に記録が残っています。詳しく調べてみますと、当社が才賀さんから仕入れていただけでなく、当社(山科電機工場)で作っていたものを先方に売っていたこともわかります。
この才賀さん、電気工事もやっておられたようですが、その後代議士に打って出られて見事当選、一期を経て、その後井戸塀のことわざ通り商売をおやめになったのですが、そこに勤めておられた小宮さんという番頭さん(これも今なら幹部社員と言うのでしょうか)が工事店を経営され、その娘婿に白坂勇城さん(現在の㈱日本電機商会さん)がおられました。白坂さんは当社の二代目喜一や三代目吉三も懇意に願っていたようですが、その勇城さんのお孫さんに当る現社長の淳氏と私(四代目隆雄)が組合の青年部活動を通じて昵懇の間柄なのです。
今もそうして親しくさせて頂けるのはお互いの先祖が仲良くさせて頂いていたからであり、本当に有難いことであります。
尚、日本電機商会さんは神社仏閣の電気工事に絶対の強味を持っておられる優れた電気工事店で、もうすぐ創業100年になろうという老舗であります。

第4話 初期の頃の仕入先、外注先 その4

 今回は津田電線さんと、東京電気株式会社さんのお話です。

電気工事に欠かせない電線類の製造は、日本国内では藤倉電線と津田電線とが草分けでした。津田電線さんは京都府久御山町にあり、今日でも電線業界でご活躍ですが、当社の初期の頃、電線類はこの津田電線さんからほとんど仕入れていました。当社の古い帳簿には津田幸次郎氏(津田電線)からの仕入れの記録が残っています。
取引は大正の中頃まで続いていたと思われますが、それより後は電材店を通じての仕入れに変わってゆきます。尚、何代目になられるのでしょうか津田武雄氏(現相談役)が95歳を超えられた現在も赫灼として会などにお出になっておられるお姿を時々拝見し、私もあやかりたいものだと思っています。

当社の創業者 山科吉之助が明治18年から22年まで、三吉電気に勤めていた時がありました。この三吉電気が後日、東京白熱電燈球製造株式会社と改称し、更に東京電気株式会社(明治32年)、東京芝浦電気株式会社、東芝と改組、改称を繰り返し現在に至られています。
その東京電気さんから、明治32年11月13日に電球類62個を仕入れています。金額にして19円75銭です。12月23日にも仕入れがあり、それら合計81円47銭が12月23日付で、東京電気から請求されています。この請求書が面白く、東京白熱電燈球製造株式会社の旧社名の印刷の上に、ゴム印で新社名に訂正されているのです。住所は東京芝区三田四国町2 とこれもゴム印が押されてあり、今日なら当然印刷し直すところでしょうが、ゴム印で間に合わせているところに、明治時代のにおいがするようです。
こんな請求用紙、おそらく東芝には残っていないと思いますが、京都の小さな電気屋に残っていたのです。 山科電機工場が東京電気株式会社(後の東芝)から明治32年に電球を仕入れた時の請求書

山科電機工場が東京電気株式会社(後の東芝)から
明治32年に電球を仕入れた時の請求書

尚、東京電気の「会社のあゆみ」によると、その長い歴史の中で、1921年(大正10年)二重コイル電球を発明(世界初)、1925年(大正14年)内面つや消し電球を発明(世界初)、1940年(昭和15年)わが国で初の蛍光ランプを製作、などの文字が輝いています。(平成4年8月1日付電設新報による)