第3集 お得意様の事

第1話 お得意様のこと1

 今回から何回かシリーズで、私ども山科電気工事の昔からのお得意様のことを書かせて頂きます。その中で昔の電気工事の様子などをお伝えできればと思います。
 お得意様で一番古いのは宮内省(現 宮内庁)様で、明治28年に初めて工事を御下命いただいて以来今日まで、途切れることなく108年続いています。
 第1回目は日清戦争もほぼ終結し、広島にあった大本営が京都に引越しされた時に、警備用の電話及びベル工事をさせて頂きました。それ以来引続き、京都御所、大宮御所、京都御苑、二条離宮(二条城)、修学院離宮、桂離宮、武庫離宮、正倉院そして各御陵等へ皆出入りをさせて頂いています。(第二次大戦前に二条離宮及び武庫離宮、大戦後に京都御苑は他の官庁へ移管されています。)
 第1回目の工事以降は、電灯及び弱電関係工事そして避雷針工事は私ども山科電機、高圧及び送電線関係工事は京都電燈(株)の工事部(得意先係と称しておられた)、この2社がほとんど特命で受注させて頂いておりました。ただ、大正、昭和の御大典やその他特別な場合には、私どもの会社をはじめ、東京、大阪からも業者が集って来て施工しました。
 残念ながら、第二次大戦後は、ある一定額以上の工事はすべて入札の制度に変わり今日に至っています。しかし、第1回の受注以後、毎度の行幸、行啓や、大正14年11月のスウェーデン皇太子の行啓時、さらには大正、昭和の御大典、さらには最近では昭和63年の大宮御所の御殿冷暖房工事、平成2年の平成御大典京都大茶会に伴う大宮御所御殿電気設備整備工事、さらには直近の仙洞御所、大宮御所、桂離宮の各赤外線警報装置工事に至るまで100年を超え途切れず御注文を頂いている電気工事会社は日本広しと言えども、私達山科電気工事ぐらいのもの、と断言できますし、当社の誇りであります。

御所へ出入りする際通行証の役目を果たしていた御門鑑

第2話 お得意様のこと2「天皇陛下の卓上押釦」

 さて、御所からの1回目のお仕事(明治28年)は、御座所から侍従、武官、舎人その他の人々への呼び出し電鈴及び構内警備用の電鈴、電話工事でした。残念乍ら、今その書類は見つかりません。
 以下の話は、先代社長山科吉三の記憶によるものですが、昭和5、6年頃のある日、店に見事な金色、銀色の卓上押釦が置いてありました。吉三は兄の喜一(初代社長、創業者吉之助の長男)に聞くと、金色の卓上押釦(5ヶ所用或は7ヶ所用であったかもしれない)は天皇陛下用、銀色のもの(5ヶ所用)は皇后様用で、別に傷んではいないが、やや色もくすんできたので、電気的点検も兼ね手入れするように、ということでお預かりして来た、とのことでした。
 吉三の回想によると、店に置いてある間にまだ当時少年だった、仕事をして間無しの吉三は一度釦を押してみようと手を出しかけたのですが、いやいやそんな事をしては罰があたると、急に手を引っ込めたことがあったそうです。
 2~3日店でお預かりし、点検を終え、磨きあげて喜一がお返しに行ったのですが、吉三がその時見た感じでは、押釦の出来がしっかりしていたので、明治28年のものではなかったようです。
 卓上押釦の形は大体下の図のようなものでした。せめて写真にでもとっておけば良かったと、吉三は悔んでいました。押釦には侍、武、舎とかがありました。(侍は侍従、武は武官、舎は舎人)。天皇様用に比べ皇后様用はやや小型であったようだ、と吉三は社史の中で回想しています。

第3話 お得意様のこと3「明治天皇の落書き」

 さて、永年御所へ出入りさせて頂いていると、一般の方々には経験できない色々なことがあります。
今回は「明治天皇の落書き」の話です。少し長くなりますが、先代社長山科吉三が当社の100年史「道」に記述している文章をそのまま掲載します。

明治天皇の落書き

多分昭和30年前後のことである。何かのお仕事で御所へ行った時、電気係の人が私に珍しいものを見せてあげようとのこと、何であろうかと後について行くと、御所も北の方で、多分朔平門の近くと思われる御殿に案内された。そこは多分狩野何某とかの、名のある絵師の描いた風景画のあるふすまがズラリと廻してある。そのふすまに黒々と墨で、ふすま1枚に1面ずつ似顔絵が描いてある。顔の大きさはどれも15cm~18cm程で、何れも畳から1m30cm~1m50cm程の高さである。つまり落書きである。
明治天皇がご幼少の頃、ここで落書きをされたのである。それも隅っこの余白に遠慮がちにではなく、堂々とふすまの真中あたりに下に誰の花鳥や風景画が描いてあろうとおかまいなしに、墨で黒々と描いてある。計5~6ヶ所あったと思う。
ふすまはワヤであるが、これが明治天皇の落書きであるから、かえって値打ちがある。正に王者のいたずらで、おおらかなもので、しばらくあぜんとして見ていた。
その似顔絵の筆さばきが、なかなか上手である。その顔やかぶり物から受ける感じは、室町以前の人の庶民の顔で、時々古い建物を解体修理した時に出てくる工人さんや庶民の顔の調子である。天皇は絵がお上手であったと思われる。あるいは何かをお手本に、前もって練習してあったようにも思えるし、割合低い所に描いてあるので、少年時代とも思う。
12~13年前、京都新聞に、明治天皇のいたずら書きとして報道されたのは、竹林の竹に添って墨でなすってあるのがあったが、それは単に線を引いただけのもので、絵とはいえない。これは初期のいたずらで、私の見たのは正に芸術の域にある似顔絵である。きっと他にもあって、段々上達していかれたものと思われる。
おつきの人もそんなところへ落書きされて、初めはビックリしたに違いないが、今は大切に保存されていると聞いている。これを見た人は、部外者では余りないと思う。私の自慢話の一つで、商売冥利につきる。
いかがでしたでしょうか。
明治天皇というと遠い人のように思いますが、何だか親しみを感じさせられますね。

第4話 お得意様のこと4「ナースコールの製作」

 京都府庁のお仕事も、明治から今日まで途切れることなく続いています。その中で一番大きかったのは府立病院の新築工事でした。ずっと昔、医専と呼ばれた木造工事時代は別として鉄筋コンクリート造りとなってからのほとんどを当社が施工させて頂きました。(ただし、これらは昭和15年位までの建築で、今日では全て建替えられ、戦後は当社が入札に参加しない時期があったので、残念乍ら全て他社の施工です。)
 当時、府には電気の専門官が1人もおられず、さらに鉄筋コンクリートの電気工事を元請けできる店は京都には3~4店しかありませんでした。その上設計出来る店となるとさらに少なかったのです。
 特にナースコールなどの設備は今では何でもありませんが、当時は「そんなややこしいものは・・・」と尻込みされる店が多かったのです。そんなわけで、当社の設計・製作によるナースコール設備が大活躍しました。
 当社の2代目山科喜一が図面を引き、リレーは山科電機製作所製を使用したのです。このような難しい仕事には当社の看板技術者であった杉江嘉一が当り、電源は24V、リレーの大きさは8cm×8cm×6cmでリレーに使う部品の一部を草川電機製作所に注文、無事作動させました。これ以降しばらく病棟関係の仕事は当社の独占のようになったと聞いています。もちろん東京や大阪には大手業者もあったのですが、十分仕事量があり、わざわざ京都まで足を伸ばして来なかったのも幸いでした。今では考えられない良き時代でした。

第5話 お得意様のこと5「府庁からのご依頼-設計と検査」

 前回の病院の他にも、学校や他の施設も数多く設計のご依頼がありましたが、当店が落札できなかったものも多くありました。当店が施工もさせて頂けたのは次の各所です。

  • 府警本部本館
  • 府立第一高等女学校(現 鴨沂高校)
  • 桃山中学
  • 師範附属小学校(現 教育大学附属京都小学校)
  • 経済部庁舎
  • 第二日赤病院 
(ただし、5・6は木造で、現在は鉄筋に建て替えられています。)

 その後、戦時中に、府庁にも電気係の人が2人来られ、設計はその方々が担当され、私どもの店に委託されることはなくなりました。
 府庁からは、他にも警察部保安課からのご依頼が時々ありました。保安課では今の保安協会のような仕事もやっておられたのですが、大正時代には手がまわらなくなり、「山科、ちょっとこれ見に行ってくれんか」と依頼されることが時々あったのです。
 創業者吉之助の話では、ある時調査に行くと、ブラケットの芯線に鉄バインド線を使っていたのが見つかったことがありました。これには吉之助も大変弱ったらしく、いずれ保安課員の知られるところとなり、その施工業者は涙を流して平あやまりにあやまったとのことで、吉之助も立場上あんなにつらかったことはなかったと二代目や三代目に話していたそうです。が、その業者の名前は終に言わなかったそうです。
 もう一つのご依頼は、避雷針アースの検査でした。当時高さ20m以上の建物と火薬庫には避雷針の取付けが必要で、竣工届に検査表を添付することになっていました。当店で発行した検査表があればパスしましたし、それがないと保安課がもう一度確認されることもありました。保安課が忙しい時には「山科、これで良いか」とのお問い合わせがあったとのことです。
 火薬庫とは、ダイナマイト倉庫であったり、鉄砲店の倉庫などです。測定書は初期は2円~3円程度、後には5円先方へ請求していましたが、実費程度の請求で、良心的にやっていました。これらのご依頼は昭和16、17年頃までで、合計250件ほどあったことが帳簿からうかがえます。

第6話 お得意様のこと6「NHK沖縄放送局-1番遠方の仕事」

 当社が施工させていただいた1番遠方のお客様は、戦前ではNHK沖縄放送局でした。昭和14年頃、京都府庁の営繕技師から沖縄県庁の営繕課長に栄転されたM氏からご依頼があり、放送関係以外の電灯、動力、弱電その他の工事を請負わせていただきました。
 作業は、当社の技術者杉江嘉一がチーフで月に2週間程度現地へ行き、他に社員の電工が1名常駐し、現地で作業員1名を常傭し、計3人で工事を完成させました。二代目山科喜一も月に1~2度出張をしており、店をあげての工事だったようです。
 当時はまだ航空便はなく、1番早いのが関西汽船で、神戸-那覇間が3日程かかり、他の方法としては陸路鹿児島まで、そこから小船で奄美大島名瀬経由で那覇までが4~5日の行程でした。それも台風等が来ると欠航が再々あり、大変な苦労だったようです。
 山科喜一も、杉江も、毎便1、2等での往復でしたが、当時は関西汽船の着く前日に沖縄の新聞には必ず来航者の氏名が1等誰々、2等誰々と書きたてられていたといいます。3等はすし詰めの状態であったそうです。
 当時の工事日報が残っており、着工は昭和16年6月14日、竣工が同16年12月2日で、最後まで現地にいた技術者の杉江が神戸へ着いたのが12月10日、すなわち大東亜戦争の始まった2日後でした。杉江は宣戦布告を四国沖で聞いたとのこと。工具や資機材などを沖縄から店へ送り返しましたが、2つあった荷の内1つだけはとうとう着かずじまいだったのです。
 工事図面は全部保存してありますが、仕事そのものより、往復が大変だったようで、利益はほとんど往復の費用や宿泊費等で使い切ってしまったようです。でも、直営工事であったので先方では大変喜んでいただけたとのこと。その工事も4年後の沖縄戦で全て灰になってしまいました。
 その後、当社では平成2年にアメリカ合衆国のカリフォルニア州フォルサム市に建設された米国月桂冠㈱様の酒造工場に清酒の製造工程を制御するコンピューター制御盤を設計、製作、納入させて頂きました。これが新たな1番遠方の仕事となりました。また、平成9年以降2度にわたり、福田金属箔粉工業㈱様のご依頼で中国蘇州市でも工事をさせて頂きましたが、NHK沖縄放送局のお仕事は、その間永らくの間当社の1番遠方のお客様だったのです。

第7話 お得意様のこと7「先斗町歌舞練場と京都歌舞伎座」

 「先斗町」と言えば「歌舞練場」、「歌舞練場」と言えば「鴨川をどり」ですね。その「鴨川をどり」の舞台照明ですが、昔はろうそくを差し出して、立役の顔を照らしていたといいます。それを電気でやるようになって以来のお得意様です。
 当店の古い帳簿には、明治28~29年にかけて、合計362円77銭5厘の売り上げが記されています。以降「鴨川をどり」の照明を受け持たせていただきました。
 当店に明治45年に入店した杉江嘉一(当時小学校3年生。6年生まで店から夜学へ行き卒業)は、大変器用な人で、7~8年で一人前になり、色々な工夫をして、自ら舞台装置を作ったりして照明をにぎやかなものにしていました。その杉江がチーフになって永らく当店が舞台照明を請負っていましたが、戦後昭和35年頃に独立してもらい、以後は杉江個人の仕事となり、没後(昭和50年)その後継者が今日まで先斗町から依頼されています。杉江は独立後も常に当社へ顔を出す昔気質の律儀な人でした。舞台照明に関係していたので、松竹及び京極付近の映画館や劇場へも出入りをしていました。
 明治の中頃、オッペケペー節で一世を風靡した川上音次郎(本名音二郎)や日本の第一号の女優と言われる貞奴、そして山口俊雄が歌舞伎座で上演した時には照明装置を請負ったのでしょう、その代金822円50銭を歌舞伎座へ請求している記録が残っています。
 後日、創業者吉之助の妻のぶが、吉之助は歌舞伎座へ仕事に行くと、用が済んでも帰って来ない、と息子の吉三(先代社長)によくこぼしていたそうですが、こんな芝居を見ていたのかもしれません。
 当時、先方への請求は、大工60銭、人夫50銭、それに対し電工は70銭と記されており、電工の地位が高かったことがうかがわれます。

第8話 お得意様のこと8「ヴォ-リズさん」

 建築家ウィリアム・メレル・ヴォ-リズの名前は多くの方がご存知のことでしょう。 当社が、そのヴォ-リズ建築事務所へ出入りしはじめたのが昭和4年で、第1回目が稲田病院(二条東洞院)でした。重厚なレンガ作りの耳鼻咽喉科で、私も少年の頃何度かお世話になったことを覚えています。残念乍ら今ではマンションに建替えられてしまいました。 第2回目は大丸下村社長邸(昭和7年、烏丸丸太町、現在の大丸ヴィラ)、第3回目は大丸伏見邸(昭和10年、現在の宝酒造旧本社)、第4回目が、保存か取壊しかで大騒ぎとなったかの豊郷小学校(滋賀県、当時日本一の小学校と言われた)、第5回目が大丸仕入部、第6回目が大丸京都店7階食堂でした。これが昭和12年です。その後第7回目に豊郷小学校の附属的設備を施工させて頂き、そして戦争で一時期工事は全面ストップしました。戦後26年頃になり、第8回目の工事として京都YMCA(三条)改修工事、第9回目に近江サナトリウム病院の増築工事などを施工させて頂きました。 以上、いずれの工事も大変入念に行い、数多くの感謝状を頂いたもので、当社にとっていずれも代表的な作品となりました。 ヴォ-リズさんは米国人で、帰化(昭和16年)されて「一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)」となられました。初めは、滋賀県八幡商業の英語教師をされ、後、近江八幡市でメンソレータムの販売や建築事務所を経営、その利益のほとんどをキリスト教の伝道や土地の子女の教育事業につぎこまれたことはあまりにも有名な話しです。私共の先代吉三の書き残した文章によると、実に人なつっこい方で、自然にこちらの頭の下がる思いの人であったとのことです。残念乍ら、昭和39年にくも膜下出血で亡くなられました。 こんなヴォ-リズさんのお仕事をさせて頂けたことは、当社にとって大変幸せなことでした。